翻訳:後藤 敏之(ルート66アソシエーション日本)
1. アメリカ先住民の道
旅行者がアメリカ国道66号線を往来するよりずっと前に、アメリカ先住民族は最初の「道」を作りました。その充分に形作られた道は、現在のアリゾナ州と太平洋を結ぶ貿易ルートとして役立ちました。
当時無数のルートを介したネットワークがあり、西部のあらゆる所から、宝物を交換するために何マイルも旅した部族たちがいたものです。貝殻、石類、宝石、そして織物製のバスケットは、通貨として使われたアイテムの一部でした。アメリカ先住民の生活に関する情報は、この地域を訪れた初めてのヨーロッパ人であったフアン・デ・オネートによって1604年に初めて記録されました。
その詳細は、フランシスコ修道会、Francisco Garces 宣教師がその地域に到着した1776年に追加されました。モハベ、ウアラパイ、ハヴァスパイなどの現地在住の部族は、宣教師を歓迎し、太平洋への交通道を分かち合い、モキ(ホピ族)の村を東に向かって旅する際の手助けをしました。
2. 35緯度線
Graces 宣教師はこれらの広範貿易ルートを旅行した最初のヨーロッパ人であると考えられており、彼は未知の土地での生活はどのようなものであるかという記述を残しました。
今日、これらの初期の貿易ルートを取り巻く地域は、アリゾナ北部を通過する緯度の尺度を示す「35緯度線」として知られており、歴史的には、ビール・ワゴン・ロードで始まる、ナショナル・オールド・トレイルズ・ハイウェイ、そして更にはアメリカ国道66号線の南西部へと続く東西を旅する根幹の役割を果たしてきました。
コロラド川からオートマンのブラックマウンテン地域、キングマン地区の丘陵と山間の景観、フラッグスタッフで見られる巨大松、ペインテッド・デザートらに代表されるアメリカ国道66号線のアリゾナ州部分のユニークさは、アメリカ先住民族は道を通すにあたって、自然と景色の良いルートを取ることを選択したと私たちは解釈できます。
3. 大移動
時がたつにつれて、多くの旅行者がこのエリアに集まってきました。毛皮狩猟目的や金脈を探す辺境の山を自由に徘徊する人達は、アリゾナ州北部やコロラド川沿いを絶え間移動していました。
1810年から1820年にかけての「大移動」は、アメリカ先住民の広範な沿道上に多くの入植者をもたらしました。
西に行けば土地があるぞ、という噂も手伝い、これが太平洋に向かって旅をするアメリカの長い伝統の始まりとなりました。
1851年の後半、Lorenzo Sitgreaves隊長はこの地域最初の専門的な地図を作成しました。彼は長い月日のリサーチ後、新たな交易道は西部に既にある道に沿ってではなく、35緯度線に沿って作るのが最良との実践的勧告をしました。シトグレーブス隊長の発見はルート66の歴史的発見に繋がりました。今日「シトグレーブス・パス」と呼ばれるオートマン郊外にある3,652フィートの高山道は、彼にちなんで名づけられたものです。
4. エドワード・ビール中尉のラクダ隊
1800年代になって西部に移住する人が増えたため、冬の気候下でも安全に通ることが出来るルートの必要性がますます重要になってきました。1857年、ブキャナン大統領下の国務長官は、エドワード・ビール前海軍中尉とそのようなルートを調査し、開発する契約を結びました。このルートは、南部アリゾナ州の反政府勢力支持者の影響を強く受けない上、かつ全天候型の道路を提供するに十分に南にあると判断された、35度線に出来るだけ近いことが望ましいとされていました。ロレンソ・シトグレーヴスの1851年の調査結果を参考に、ビール前海軍中尉とそのチームは、隊員44名、ワゴン12台、そして動物ら120匹と一緒に、ニューメキシコ領フォート・デファイアンスから任務を開始しました。
その一行には馬、ロバ、そして犬加えて、エジプトからのラクダが25頭いました。ビール前海軍中尉の任務の一つして、南西部でのラクダの軍事使用が可能かどうかのテストが含まれていました。
5. ビール・ワゴン・ロード
あまり知識のない少数のガイドとラクダの優れたパフォーマンスの助けを借りて、ビールの一行は出発より49日目にコロラド川に到着しました。ビールはこの後数年間に渡って、このルートを何回か行き来し、できるだけ水源と水源の距離を短くし、荒れた地域には真っすぐな道を作るよう調整することに尽力しました。
この探検の結果、アメリカで最初の連邦政府が資金を提供するワゴン・ロードとなる、ビール・ワゴン・ロードが産まれました。かかったコストは400マイルの道路に対して50,000ドル。1マイルあたり$125ドルとなり、このプロジェクトは目覚ましい結果を残しました。この金額を例えば、ボストン・セントラル・エクスプレスウェイのような現代の高速道路と比較してみてください。7マイルで100億ドル、つまりコストは道路1インチあたり約22,500ドルもかかっています。
ビール・ワゴン・ロードは今日まだ残っている部分も沢山あり、ルート66の幾つかの場所からアクセスすることが出来ます。
6. 開拓者たちの苦難
道そのものは殆ど変わらないとは言え、1850年代の西部への旅は、1950年代のルート66の旅とは勿論全く異なるものでした。アメリカの「メインストリート」(すなわちルート66)上で簡単に入手できる食料、避難所、水などは、開拓者たちにとっては物凄いチャレンジでした。
家族と動物の両方に充分な供給が必要なので、水源を見つけることは常に重要でした。日々の旅行は、小川や他の水源の距離によって考慮されるため、彼らは雨季が来るのを待つ必要もしばしばありました。
開拓民とその地で暮らすネイティブアメリカンとの紛争も、入植者が次第に増え続けたことによりとても一般的なものになりました。多くの仕訳記録に、現地の人達に辛くあたった開拓民は結果として苦しむことになり、そうしなかった開拓民は暖かく迎え入れられたと記載が残っています。
個性の違い、それに両方が抱えるそれぞれへの恐怖心が度々の紛争を起こす原因でした。
荒れ果てた歩道、傷んだ馬車、動物や人の病気、盗難、食糧不足もまた、西部へ向かう家族や一行が直面した困難でした。
7. 最初のワゴン・ロード旅行者
1858年、ビール元海軍中尉のチームがワゴン・ロードの最初の調査作業を完了した数か月後、旅行者たちはすでに、ビール・ワゴン・ロードと呼ばれるこの新しい改善されたルートを使用したいと熱望していました。
この新しい道を旅する最初のグループの一つに、L.J.ローズ氏の率いるいくつかの家族で成る一団がありました。これらの家族が皆で協力することで、雇ったガイドの費用、水源探し、日常生活の辛さは少し楽になりました。また、馴染みのない場所を旅する人々にとって大所帯で居ることが安全に繋がることも理解されていました。
コロラド川に近づくと、動物を水辺に連れて行きたい家族もあり、一団は小さなグループに分かれました。 おそらく外部の人たちによって唆されたモハベ・インディアン達は、この傾向を見て旅行者グループに疑念を持ち、おそらく彼らが彼らの土地に定着しようとしていると信じていたと推測されます。
8. 移民とインディアン戦争
インディアンが攻撃をしかけ、移住者の8、9人が殺され、15、16人が負傷しました。モハべ間での犠牲者については記録がありませんが、数字はもっと高かったと思われます。移住者たちは、インディアンの大規模勢力と執拗な攻撃性に直面し、自分らの装備や動物の大半を捨て、荒れ果てた山に戻らなければなりませんでした。他の生存者とリグループしながら、怯え、そして疲れたきった家族は東へ戻り、アルバカーキに戻るものと確信していたいくつかのワゴン隊と手を結びました。
ローズ家一行大虐殺のニュースは、米国での大きな恐怖と怒りを引き起こしました。ビール・ワゴン・ロードを旅する何百もの移民家族を守るためには、新しい措置を講ずる必要があります。1859年、コロラド川にフォート・モハべが設立され、旅行者を避難させ保護することに成功しました。ビールの1857年の記録は、移住者をモハベ地域での攻撃から保護するために、コロラド川で軍事的存在が必要であると示しており、非常に興味深いことである。
9. 幌馬車
陸上を渡る開拓者たちがよく使用していたカバーで覆われたワゴンは、その見かけが海を渡る船に似ていたことから「幌馬車」と呼ばれました。このタイプの典型的なものは、カバーを寝かせるためのフープフレーム上部が取り付けられたファーム・ワゴンによく似ていました。これらのワゴンに長い移動のために多くの物が積み込まれたとき、通常乗客のためのスペースはありませんでした。それゆえ、西部へ向かう多くの開拓者たちは荷車したワゴンのそばを歩いていました。
10. 鉄道時代の到来
鉄道時代の到来は、ビール・ワゴン・ロード沿線地域に急速な発展をもたらしました。列車は西部地域の多くの牧場や鉱山からの物資輸送を提供することができました。
1866年になって、35度線沿った最初のチャーター鉄道が大西洋と太平洋鉄道に与えられました。
その後A&P鉄道が財政難に陥ったとき、アチソン、トピーカ、サンタフェは同社の支配権を買収しました。
1880年から1883年まで、ルイス・キングマンは、アルバカーキからカリフォルニア州ニードルスを流れるコロラド川へのルートを調査しました。東西を結ぶ、きちんとした商品やサービスの提供が可能になれば、ここが南太平洋ラインとつながる新しいラインとなるはずでした。
鉄道は純粋に機能的イノベーションとしての役割を果たしていましたが、開拓移住民にとってそれは、ある種の自由と権力を表しました。
西部への開拓移動は魅力的でしたが、実際の旅そのものはほとんどの場合、想像を絶するものでした。即ち、ルート66が、同じく時代の節目に鉄道がそうであったように、同じような自由を象徴していることは偶然ではありません。どちらも共通の、美しい自然だけでなく、好奇心旺盛な開拓者たちの注目を集める要素を持っているのです。
1915年、ナショナル・オールド・トレイル・ハイウェイが最初の大陸横断道路になったとき、開拓者たちは巨大な列車エンジンと一緒に走る経験をし始めました。この道路の一部は後に、1926年に新たに指定された国道66号線であり、アリゾナ州北部は一部のアメリカ人に「ショットガン・ライド」として初めての喜びを与えてくれました。(この種の娯楽は現代も歴史的ルート66上に息づいています)
鉄道は、私たちの多くの街の発展に役立ったこともあり、常に西部開拓とはきっても切れない縁があります。サンタフェ鉄道を含む旅客、貨物列車は、今も「母なる道」ルート66と並行して走っています。既にご存知かもしれませんが、毎日この建物の外を80回近くも鉄道は行き来しているのですよ!
11. 優良道路の必要性
アメリカ人にとって自動車に対する愛情は、車が工場組立ラインから出荷された瞬間に始まり、その恋愛にも似た感情も決して気まずいものにはなりません。モーター・トラベルの出現により、私たちは道路が、しかも沢山の道路の必要性は明らかになりました。国中に全国グッドロード(優良)協会の支部が立ち上がり、アリゾナ州もその例外ではありませんでした。州の北部と南部にあるそれぞれのグッドロード協会は、利用できる資金枠に関して争いました。モハベ郡は、映画俳優、アンディ・デバインの父親であるトム・デバイン氏と、ジョン・ホワイトヘッド博士によって代表されました。 彼らは、同じ北部の他郡の代表者とともに、北アリゾナ地域におけるオールド・トレイルズ・ハイウェイの建設、改善するための資金得るのに十分な説得力がありました。 この道が結局、アメリカ・ハイウェイ66となったのです。
12. 怒りの葡萄
「そして彼らはワゴン車の跡がそこら中に出来た荒れた道から66号線の本線に合流した。66号線は母なる道、飛翔への道でもあった。」
この一節はジョン・スタインベック氏原作の小説「怒りの葡萄」からの抜粋ですが、これはルート66をアメリカの歴史と文化の一部として永遠に不滅のものとしました。1929年の株式市場崩壊に続く大恐慌時代は、想像を絶する困難をもたらしました。失業保険や社会保障も無し、銀行は破綻、家屋は質流れ、貯蓄は消失、多くの貧困者達は一層厳しい環境に強制的に投げ出されました。他に選択するものがなくなった彼らは、ありったけの身の回りのものを荷台に積み込み、職を求めて旅たちました。
ルート66は「より良い未来」への生命線になったのです。
しかし、その成功はもうちょっとで訪れるはずでしたが、ブリキ製のボロ車に乗ってカリフォルニアへと向かった旅人たちは貧困と絶望にぶち当たって帰還するばかりでした。
この「ルート66人生」の辛い期間は、第二次世界大戦の始まりが新しい国家意識としての決意と仕失業を引っ繰り返す雇用を生み出す1930年代まで続きました。
13. ダスト・ボール
アメリカ中西部は1931年から1939年にかけて有史以来最悪の時期を経験しました。作物は枯れ果て、「黒い風吹」が吹き荒れました。このカンザス州ロロの写真が示すように、数マイルの高さにもなる塵雲が平野を駆け抜け、細かく乾いた泥が全てを覆いました。当然作物は育たず、風や塵のため動物や人間たちは正気を失っていきます。
大恐慌時代に重なって行った塵嵐の荒廃と破壊によって、多くの人々が農場を離れ、より良い人生プランBを求めて母なる道ルート66に沿ってカリフォルニアを目指すことになりました。しかしながら実際にカリフォルニアに向かった約20万人(ダストボーラ―と呼ばれました)のうち、辿り着くことが出来たのは1万6千人ほどでした。ほとんどの人達が数か月以内に元の場所に戻ってしまいました。ルート66は中西部に留まった人達、失敗したけど果敢に挑戦した人達にとって、より重要なものとなったのです。高速道路は、ルーズベルト大統領の新経済政策による雇用救済と経済復興と密接に関連性を持ちました。1933年から1938年の間、各州における失業中の男性は道路建設要員として積極的に雇われました。その労働力によってルート66は全線、シカゴからロスアンゼルスまで1938年に舗装が完了したのです。
14.より良い人生
1930年代の干ばつと不況によって、より良い生活を送ることを夢見た20万人以上の人々が、中西部からカリフォルニア州へと移住しました。しかしその大部分において、彼らが見つけた人生は決して良くありませんでした。彼らは移住者収容所に集められ、警察によって強制追放されました。カリフォルニア州~アリゾナ州の国境沿いの国道66号線には、移民に帰還を警告するカリフォルニア州のサインがありました。それほど移民はカリフォルニア州に歓迎されていなかったのです。一般的に信じられていませんが、カリフォルニアに移住した人のわずか8%がそのまま留まりました。数ヶ月以内にほとんどの人達が中西部に戻って行ってしまったからでした。
15. 第二次世界大戦
ルート66は、シカゴからロサンゼルス間が1938年までに舗装されました。第二次世界大戦前夜に舗装が完了したことは非常に重要でした。戦時中の迅速な動員のためには、改良された高速道路が必要でした。 第二次世界大戦初期に軍隊は、良い気象条件と地理的隔離性を理由に、多くの訓練拠点に西を選びました。 Kingman Army Airfield Gunnery Schoolを含むこれらのうちいくつかは、国道66号線またはその近くに位置していました。戦争中の鉄道の軍事予算は、トラック業界にとって大きな恩恵をもたらしました。自動車生産台数は1941年の370万台から1943年には610台に減少したが、30万ポンド以上を運搬できるトラックの生産は増加しました。戦争の期間、すべての軍事装備の50%はトラックによって牽引されました。米国の高速道路66号線で、長距離の護送隊が兵器や装備を輸送するのは珍しいことではありませんでした。
16. 1950年製 スチュードベーカー チャンピオン 4ドア
製造元推奨小売価格 $1,487.00
チャンピオンはスチュードベーカーの低価格商品でした。
1852年、スチュードベーカー兄弟はインディアナ州サウスベンドに鍛冶屋を開業、市民戦争時代にはU.A.軍にワゴンを供給していました。1868年には、Studebaker兄弟のうち4人が「スチュードベーカー兄弟製造会社」を設立しました。
20世紀の到来に伴い、スチュードベーカーは電気自動車とガソリン車の両方を作り始めます。
そして1954年には、スチュードベーカーとパッカード社が合併し、「スチュードベーカー・パッカード社」となりました。彼らの夢はゼネラル・モーターズ、フォード、そしてクライスラーに続く4番目の車会社になることでした。しかしドラマは悪夢に変わりました。かつては米国内での高級車販売のトップを走っていたパッカード社は、1958年に姿を消します。スチュードベーカーは1966年に生産停止に追い込まれました。スチュードベーカーはその114年の歴史の中で、入植者用ワゴンから高性能自動車に至るまで幅広い展開をした唯一の企業でした。
17. ブルマ・シェイブ。
父親のシェービングクリーム事業を救済するために、アル・オデルは1925年、中古の看板をたくさん買い集め、広告宣伝のスローガンを書きこみ、杭で道路に打ち込みました。こうして、ブルマ・シェイブが生まれました。
最初の謳い文句はリズミカルな韻踏みやジングルではなく、簡単な散文詩でした。
「今風に剃ろうよ、肌にやさしいよ、薬剤師だって使っている、ブルマ・シェイブ」
やがて散文詩はポエムに変わって行き、ブルマ・シェイブの看板を読むことは国中の娯楽となりました。旅行者は韻を集め、新しい小唄に出会った時喜びながら歌い叫びました。詩句はただ単にブルマ・シェイブを宣伝しただけでなく、会社は公共サービス用メッセージの役割も担いました。
「校舎を通り過ぎ、ちょっとゆっくり、シェーバーをかざそう」
しかしその文言のほとんどは男性のための滑らかで柔らかい肌に関するものでした。
「彼は男の子だぜ、女の子は忘れているのさ、輪郭はスムーズだけど、顎はそうじゃない」
やがて時代は変わり、シェービング方法も変わり、会社は財政的困難に遭遇し、1963年初頭、会社はフィリップ・モリス社に売却されました。ブルマ・シェイブの看板は全部なくなっちゃった?オフロードを走るときに道路脇をよく見て。それか、 「ブルマ・シェイブの看板、博物館の棚で見るかもね」
18. 戦後
大恐慌と第二次世界大戦によって引き起こされた混乱も平時には影響を及ぼしませんでした。戦後、アメリカ人はこれまで以上に動くようになりました。戦時中に西海岸で訓練を受けた多くの人々は、寒い地域から暖かい地域に移住しました。1945年から1960年まで、ルート66に沿った人口増加率は、ニューメキシコ州で40%、アリゾナ州で74%にまでなりました。